私はいま、病院の分娩室で命を賭けた深呼吸を何度も何度
も、それこそ死に物狂いでおこなっている。
ついに、このときがやってきた。
新しい生命の誕生まで、あとわずかである。森羅万象
に祈りを捧げ、どうか無事に産まれてきますようにと八百万
の神に嘆願し、奇跡を待つ心境で、私はそばについてくれている彰
の手をきつく握りしめた。
「大丈夫。俺は、ここにいるよ」と、彰が私の顔を覗き込む
ようにしてつぶやく。玉のような汗が彼の額から流れ落ち、どちら
が産む立場なのか分からなくなり、私は痛みを我慢して吹き出し
てしまった。
「なにがおかしいんだ、こんな大事なときに」
「だって、ほら」と、私は痛みとおかしさに顔を歪めながら云った。
「その顔、鏡で見てご覧なさいよ。ものすごい形相をしている
わよ。それに……、いたっ、だい……、丈夫。それに、私の顔
の上に、あなたの汗がさっきからぼたぼた落ちているじゃないの」
彰がはたと我に返って室内を見回したとき、期せずしてスタッフ
の失笑を買ってしまった。
「大事よね、あなた」と、私が微笑む。
「なにが?」と、彰は虚を衝かれたような顔で訊く。
「笑いって、大事よね」
「ああ」彰はなんだそんなことかと云わんばかりに、
「大事だ。笑顔は確かに大事だよ、陽子。だけどな、いまはそんな
ことを云って笑える余裕なんか、俺にはこれっぽっちもないんだ」
私はなおも痛みと笑いを堪えねばならず、その勢いでつい彰
の手を握る私の左手に力がこもる。
「いっ」と、彰が声を漏らし、痛そうに目のまわりに皺を寄せた。
「あっ、ごめん」
「なんの、これしき」と、彰は眼を大きく見開いて云った。その表情
を見て、私はステージであれほど男らしい姿で唄っている片瀬彰
とこの人は本当に同一人物かしらんと、くだらないこと
を考えた。
「がんばれ陽子。頼むから頑張ってくれよ。子どもも大事
だけど、陽子の躰も大事だからな。もう少しで産まれるぞ。……大丈夫
ですよね、先生」
「静かにしてください。もう間もなく産まれますよ」
空気が一瞬にしてぴんと張りつめた。私は再び真剣に呼吸
をする。私は荒くれた声を発しながら、急速に呼吸とひとつ
になっていく。一心不乱に呼吸を続ける。
私はいま、命を懸けて呼吸をしている。大きく、深く。大きく、
深く。碧海でさまよう深海魚をイメージして、心の中で何度も何度
もそれに呼びかける。愛するわが子よ、さあ、おいで。さあ、
こっちに泳いでおいで。勇気をもって。私を信じて。
これまで、ただの一度も経験したことのない激しい激痛が腰骨
を貫く。骨が砕けるように痛い。私は口を開けて大きく呼吸を続ける。
祈りをこめて呼吸を続ける。
まるで、宇宙の謎がたったいま解き明かされる
かのように、あるひとつの扉に鍵がそっと差し込まれていく
のを感じた。私は精一杯力を込める。躰全体を覆い尽くす汗
が、七色に輝いて流れている気がした。さらに力を入れる。海
が荒れ、大地が割れるような痛みが躰を走る。私はひたすらに歯
を食いしばる。
……我が子の声が耳に届いたとき、私は無事に産まれた
ことを思わず神に感謝した。
そして、私を産んでくれた母親と父親に感謝し、彰に感謝した。
そのあとで、私は心の中でこう囁いた。
「愛するわが子よ、新しい世界へようこそ!」
2009年02月15日
2009年02月08日
雨の動物園(47)
私はいま、声を上げて喜ぶ彼のガッツ・ポーズを、幸せな気持ち
で見つめている。
そろそろ夏になろうかというある蒸し暑い日の夜、私が告白
すると、彰は好物となったナシ・ゴレンを食べる手を止め
て、サッカー選手がゴールを決めたときのように両手のこぶし
を握りしめた。
「本当か、陽子? 本当に妊娠したんだね! いやあ
よかった、嬉しいよ、嬉しいよ陽子。ありがとう。
早速結婚しよう! みん なが祝福してくれるよ。お腹が目立つ
ようになる前に式を挙げなきゃいけないな。……どこで式
を挙げようか? 陽子はやっぱり教会がいいだろ? 探しておく
よ。だけど陽子も探してくれよ、なっ。ふたりで探せば、きっと
気に入る教会が見つかるさ。そうかあ、妊娠したかあ。いやあ
よかった。本当によかった。嬉しいよ、ありがとう陽子」
「あなたのファンの人たちに知られないかしら」
私は思い悩んでいた不安を口にした。
「そりゃあ知られるさ。だって俺が雑誌や電波で知らせる
んだから。……大丈夫、心配するなって。ファンの非難の声
とか嫌がらせなんかを心配しているかも知れないけど、昔
と違って、いまはそんな時代じゃないし、俺もそんなキャラクター
でもないし、陽子が心配するような危ないファンはいない
って。
もちろん全然いないってことはないかも知れないけど、変質者
みたいなファンはいないって。それに第一、俺がついている
から。だから安心して子どもを産んでくれ。
あぁ! とにかく嬉しいよ。天にも昇る気分って、きっと
こんな感じなんだろうな、きっと!」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんだい? 怖いなぁ、どんなこと?」
「実は、子どもを産んで何年か経って、子どもの手が離れる
ようになったら、私はまた仕事に戻りたいの。写真の仕事
を続けたいのよ」
「なんだそんなことか、びっくりするよ。なにを云い出す
のかと思ったよ。
当然だよ、そんなこと。陽子の大切なカメラを俺が取り上げる
権利なんてどこにもないって。どちらかと云えば、俺のほうから
お願いしたいくらいだよ。いくつになっても、陽子には写真を撮り
続けて欲しいんだ。
俺、陽子のことを人として、女性として、カメラマンとして尊敬
しているよ。心から、尊敬しているんだ」
尊敬などという言葉に自分が値するとは考えてもいなかった
ので、私は妙な気恥ずかしさを隠すために、おもわずクスッ
と笑ってしまった。照れ臭くて仕方がなかったのだ。ところが、
それが逆に彰をムキにさせる要因となってしまったらしい。
「嘘じゃないって、冗談じゃないって。俺は、陽子とはじめて
出逢ったときからずっと尊敬しているよ。この気持ちはこれまで
も変わらないし、これからも変わらないよ。……だから笑うな
って。俺は真面目に云っているんだよ。本当に心から云っているん
だよ」
「ありがとう」と、私は笑うのを堪えて素直に礼を述べた。
「だけど、尊敬されるほどの、私は人間ではないわ。これまで
なにひとつ立派なことをしてきたつもりはないし、表彰状の一枚
も……、写真に関する表彰状以外は一枚も貰ったことがないのよ」
「ははっ!」と、今度は彰が声を出して笑った。
「いや……、そういう意味ではなくて、さっきも云ったように人
として、女性として、写真家としてっていう意味なんだ。
まあ、それは俺が思っている気持ちだから別にいいんだけど……、
俺が云いたかったことはそのことではなくて、俺がいま陽子
に伝えたいことは……、例えばいろんな女とセックスができるから
という理由で何年もロックをやっている連中がいるけど、
俺はそんな連中の誰にも似たくないんだ。俺はこれまで、あまりに
もロクでもない男たちばかり見てきたから、そんな連中の誰
にも似たくないんだよ。ただ……、大切なことは、俺が陽子に尊敬
されるような男になることなんだよ」
で見つめている。
そろそろ夏になろうかというある蒸し暑い日の夜、私が告白
すると、彰は好物となったナシ・ゴレンを食べる手を止め
て、サッカー選手がゴールを決めたときのように両手のこぶし
を握りしめた。
「本当か、陽子? 本当に妊娠したんだね! いやあ
よかった、嬉しいよ、嬉しいよ陽子。ありがとう。
早速結婚しよう! みん なが祝福してくれるよ。お腹が目立つ
ようになる前に式を挙げなきゃいけないな。……どこで式
を挙げようか? 陽子はやっぱり教会がいいだろ? 探しておく
よ。だけど陽子も探してくれよ、なっ。ふたりで探せば、きっと
気に入る教会が見つかるさ。そうかあ、妊娠したかあ。いやあ
よかった。本当によかった。嬉しいよ、ありがとう陽子」
「あなたのファンの人たちに知られないかしら」
私は思い悩んでいた不安を口にした。
「そりゃあ知られるさ。だって俺が雑誌や電波で知らせる
んだから。……大丈夫、心配するなって。ファンの非難の声
とか嫌がらせなんかを心配しているかも知れないけど、昔
と違って、いまはそんな時代じゃないし、俺もそんなキャラクター
でもないし、陽子が心配するような危ないファンはいない
って。
もちろん全然いないってことはないかも知れないけど、変質者
みたいなファンはいないって。それに第一、俺がついている
から。だから安心して子どもを産んでくれ。
あぁ! とにかく嬉しいよ。天にも昇る気分って、きっと
こんな感じなんだろうな、きっと!」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「なんだい? 怖いなぁ、どんなこと?」
「実は、子どもを産んで何年か経って、子どもの手が離れる
ようになったら、私はまた仕事に戻りたいの。写真の仕事
を続けたいのよ」
「なんだそんなことか、びっくりするよ。なにを云い出す
のかと思ったよ。
当然だよ、そんなこと。陽子の大切なカメラを俺が取り上げる
権利なんてどこにもないって。どちらかと云えば、俺のほうから
お願いしたいくらいだよ。いくつになっても、陽子には写真を撮り
続けて欲しいんだ。
俺、陽子のことを人として、女性として、カメラマンとして尊敬
しているよ。心から、尊敬しているんだ」
尊敬などという言葉に自分が値するとは考えてもいなかった
ので、私は妙な気恥ずかしさを隠すために、おもわずクスッ
と笑ってしまった。照れ臭くて仕方がなかったのだ。ところが、
それが逆に彰をムキにさせる要因となってしまったらしい。
「嘘じゃないって、冗談じゃないって。俺は、陽子とはじめて
出逢ったときからずっと尊敬しているよ。この気持ちはこれまで
も変わらないし、これからも変わらないよ。……だから笑うな
って。俺は真面目に云っているんだよ。本当に心から云っているん
だよ」
「ありがとう」と、私は笑うのを堪えて素直に礼を述べた。
「だけど、尊敬されるほどの、私は人間ではないわ。これまで
なにひとつ立派なことをしてきたつもりはないし、表彰状の一枚
も……、写真に関する表彰状以外は一枚も貰ったことがないのよ」
「ははっ!」と、今度は彰が声を出して笑った。
「いや……、そういう意味ではなくて、さっきも云ったように人
として、女性として、写真家としてっていう意味なんだ。
まあ、それは俺が思っている気持ちだから別にいいんだけど……、
俺が云いたかったことはそのことではなくて、俺がいま陽子
に伝えたいことは……、例えばいろんな女とセックスができるから
という理由で何年もロックをやっている連中がいるけど、
俺はそんな連中の誰にも似たくないんだ。俺はこれまで、あまりに
もロクでもない男たちばかり見てきたから、そんな連中の誰
にも似たくないんだよ。ただ……、大切なことは、俺が陽子に尊敬
されるような男になることなんだよ」
2009年02月01日
雨の動物園(46)
私はいま、やらなければなせない仕事を放ったらかし
にして、彰がシングルで発表した「天使の呼吸」
をひとりで聴いている。
二十回続けて聴いてから、ふと考えてみた。たとえ、母親
からどれだけ瞋恚の罵声を浴びせかけられようとも、私は彰
のことを僅かなためらいもなく信じている。仮に彼が私を騙そう
としているのならそれでもいいし、これから先、傷つけられる
こともあるかも知れないがそれでも構わない。
要は、私が彼のことを好きかどうかだけの問題である。人を好き
になるということは、ある種の潔さが必要とされる。怯えながら
でも一度握った手は、しっかりと握っていたい。今後、結果的
にふたりの生きていく世界がいつか別々になるようなことがあった
としても、いまから裏切ったり裏切られたりすることばかり心配
して生きてどうするというのだ?
いま、私はこの世界で毎日笑ったり泣いたりしながら生きている
が、ごく当然のこととして、いつだっていま以上に大切なとき
などはどこにも存在しないはずである。
そして一秒後には、つねに新しい未知の世界の扉が開かれ
続けている。その未知の扉を、私はいつも無意識のうちに開き続けて
いる。未知の、新しい世界へ、私は生まれたときからずっと大した感動
もなしに飛び込み続けているのだが、ひょっとしたらそれは神秘的
な出来事なのかも知れないと思うと、少しだけわくわくする。
そのわくわくする私の感性が、いま彰を好きだといっているのだ。
そう……、私は片瀬彰を好きだという自分の感性を、信じていたい
と思う。私はどんなときも自信に満ち溢れ、もしくは虚勢
を張って生きているわけではないのだけれども、最低限、自分の感性
を信じるということは、私が新しい世界へ飛び込むための勇気
にも似た、最後の砦なのだから。
二十一回目の「天使の呼吸」。曲に合わせて、私は歌詞カード
を眼で追っていく。
家族とは なんだろう 誰か教えてくれないか
孤独とは なんだろう 俺に教えてくれないか
愛情とは なんだろう 戦慄の微笑を浮かべる者たちよ
きみは いくつまで生きるのか
ぼくは いくつで死ぬんだろう
だけど 大切なのは きっとそんなことじゃないはずさ
希望とは なんだろう 誰か聞かせてれないか
無謀とは なんだろう 俺に聞かせてれないか
野望とは なんだろう 戦慄の微笑を浮かべる者たちよ
知性とは? 理性とは? 野性とは?
信頼! 心外! 偶然! 必然! 憮然! 呆然!
半端な紳士! 半端な真理! 半端な正義! そして俺の魂!
天使の呼吸
もしも やさしさが力だとしたら
天使の呼吸
もしも やさしさが力だとしたら
天使の呼吸が祈りとなって
彼のしゃがれた声が、心に染みる。
片瀬彰の歌が、冷えた部屋と私の躰に、少しだけぬくもり
を与えてくれた気がした。
にして、彰がシングルで発表した「天使の呼吸」
をひとりで聴いている。
二十回続けて聴いてから、ふと考えてみた。たとえ、母親
からどれだけ瞋恚の罵声を浴びせかけられようとも、私は彰
のことを僅かなためらいもなく信じている。仮に彼が私を騙そう
としているのならそれでもいいし、これから先、傷つけられる
こともあるかも知れないがそれでも構わない。
要は、私が彼のことを好きかどうかだけの問題である。人を好き
になるということは、ある種の潔さが必要とされる。怯えながら
でも一度握った手は、しっかりと握っていたい。今後、結果的
にふたりの生きていく世界がいつか別々になるようなことがあった
としても、いまから裏切ったり裏切られたりすることばかり心配
して生きてどうするというのだ?
いま、私はこの世界で毎日笑ったり泣いたりしながら生きている
が、ごく当然のこととして、いつだっていま以上に大切なとき
などはどこにも存在しないはずである。
そして一秒後には、つねに新しい未知の世界の扉が開かれ
続けている。その未知の扉を、私はいつも無意識のうちに開き続けて
いる。未知の、新しい世界へ、私は生まれたときからずっと大した感動
もなしに飛び込み続けているのだが、ひょっとしたらそれは神秘的
な出来事なのかも知れないと思うと、少しだけわくわくする。
そのわくわくする私の感性が、いま彰を好きだといっているのだ。
そう……、私は片瀬彰を好きだという自分の感性を、信じていたい
と思う。私はどんなときも自信に満ち溢れ、もしくは虚勢
を張って生きているわけではないのだけれども、最低限、自分の感性
を信じるということは、私が新しい世界へ飛び込むための勇気
にも似た、最後の砦なのだから。
二十一回目の「天使の呼吸」。曲に合わせて、私は歌詞カード
を眼で追っていく。
家族とは なんだろう 誰か教えてくれないか
孤独とは なんだろう 俺に教えてくれないか
愛情とは なんだろう 戦慄の微笑を浮かべる者たちよ
きみは いくつまで生きるのか
ぼくは いくつで死ぬんだろう
だけど 大切なのは きっとそんなことじゃないはずさ
希望とは なんだろう 誰か聞かせてれないか
無謀とは なんだろう 俺に聞かせてれないか
野望とは なんだろう 戦慄の微笑を浮かべる者たちよ
知性とは? 理性とは? 野性とは?
信頼! 心外! 偶然! 必然! 憮然! 呆然!
半端な紳士! 半端な真理! 半端な正義! そして俺の魂!
天使の呼吸
もしも やさしさが力だとしたら
天使の呼吸
もしも やさしさが力だとしたら
天使の呼吸が祈りとなって
彼のしゃがれた声が、心に染みる。
片瀬彰の歌が、冷えた部屋と私の躰に、少しだけぬくもり
を与えてくれた気がした。
2009年01月25日
雨の動物園(45)
私はいま、母親から浴びせかけられる罵倒
を、眼をそらすことなくしっかりと受けとめている。
取材で行ったタイのお土産をもって、私は久方ぶりに母親
のマンションに顔を出した。昼過ぎということもあって、ふたり
の異姉妹はそれぞれ小学校と幼稚園からまだ戻っておらず、最初
は親子水入らずの会話を楽しんでいた。
ところが、 「それで、あなた最近どうなのよ。そろそろ
いい人ができてもおかしくない年頃なのに」と訊く
ので、
「実は最近、片瀬彰っていうアーティストと付き合っている
の」と、ごく正直に、なんのためらいもなく答えたら、母親
はいきなり烈火のごとく怒りだしたのだ。
「あんた一体なに考えてんの、とても正気の沙汰とは思えない
わ、こともあろうにミュージシャンなんかと付き合う
なんて。あたしと同じ思いをするだけなのよ! 傷つけられて
踏みにじられて、ごみを捨てるみたいな軽い気持ちでぽい
って捨てられるのよ!
わかっているの陽子? こんなことになりゃしないか
と思って、ママは陽子がカメラマンになると云ったときから心配
していたのよ。馬鹿じゃないの、まったく。信じられない
わ。どうかしているんじゃないの? 頭、おかしいんじゃない
の? これじゃあ、その辺の娼婦とちっとも変わらないじゃないの!」
「ママ、それはあんまりよ」
「あんまりなもんですか。娼婦とどこが違うって云うのよ。あの
手の男はね、どれもみんな同じただの牡馬なのよ。あんたが牡
のことをひとつも知らないだけなのよ。あいつらはどれもこれも
みんな、いつでもどこでも発情しっぱなしの、単なるスケベ野郎
だってことをね!」
「彼は違うわ」と、私は反論する。
「彼はそんなんじゃないわ。私は彼のことを信じているわ」
「男なんか信じてどおすんの、馬鹿だねまったく。こりゃあ筋金入り
のお馬鹿さんだね。
とにかくすぐに別れなさい。絶対に、なにがあってもその男
とは別れなさい。いいわね、ママの云うことを聞くのよ、約束
したからね」
「約束なんかしていないわ。私はもう大人よ。自分のことは自分
で決めるわ」
「なにが大人よ、笑わせるんじゃないわ。少しくらいセックス
が上手になった程度で、あんたまさか大人になったつもりでいるの?
セックスなんてね、男さえいれば大人にならなくったっていくら
でもできるのよ。そんなもんで大人の社会を知った気になって
どおすんのよ、ったく。……いい? 陽子はいくつになってもママ
の子どもなんだってことくらい覚えておきなさいよ!」
「ママだって、ミュージシャンの人と再婚したじゃない」
「あの人はね、別なの別。そんなことも分からないから、あんた
は子どもだって云うのよ。あの人は特別なミュージシャンなのよ」
「なにが特別なの?」
「彼は男のなかでも特別な男だし、ミュージシャンのなかでも特別
なミュージシャンだし、あたしのなかでも特別な人なのよ。どうせ
陽子なんかには理解できないでしょうけどね、どこの馬の骨
ともしれないような男とほいほい寝るようなあんたには」
こんな母親には、なにを云っても無駄だと感じた。常に一方的
で、相手を理解しようとする気持ちが欠片もない。亡くなった父親
が別の女性のところに逃げたくなる気持ちも、いまの私には分かる
気がする。それでも、私の母親には違いなかった。
「とにかく、そのど助平野郎と別れないと、ママ、陽子と親子の縁
を切るからね。分かった? その男とは、絶対に別れなさい
よ。別れないと承知しないからね。あんたにはあたしみたいな苦労
はして欲しくないから云っているのよ。堅気と結婚しなさい
よ、堅気と」
を、眼をそらすことなくしっかりと受けとめている。
取材で行ったタイのお土産をもって、私は久方ぶりに母親
のマンションに顔を出した。昼過ぎということもあって、ふたり
の異姉妹はそれぞれ小学校と幼稚園からまだ戻っておらず、最初
は親子水入らずの会話を楽しんでいた。
ところが、 「それで、あなた最近どうなのよ。そろそろ
いい人ができてもおかしくない年頃なのに」と訊く
ので、
「実は最近、片瀬彰っていうアーティストと付き合っている
の」と、ごく正直に、なんのためらいもなく答えたら、母親
はいきなり烈火のごとく怒りだしたのだ。
「あんた一体なに考えてんの、とても正気の沙汰とは思えない
わ、こともあろうにミュージシャンなんかと付き合う
なんて。あたしと同じ思いをするだけなのよ! 傷つけられて
踏みにじられて、ごみを捨てるみたいな軽い気持ちでぽい
って捨てられるのよ!
わかっているの陽子? こんなことになりゃしないか
と思って、ママは陽子がカメラマンになると云ったときから心配
していたのよ。馬鹿じゃないの、まったく。信じられない
わ。どうかしているんじゃないの? 頭、おかしいんじゃない
の? これじゃあ、その辺の娼婦とちっとも変わらないじゃないの!」
「ママ、それはあんまりよ」
「あんまりなもんですか。娼婦とどこが違うって云うのよ。あの
手の男はね、どれもみんな同じただの牡馬なのよ。あんたが牡
のことをひとつも知らないだけなのよ。あいつらはどれもこれも
みんな、いつでもどこでも発情しっぱなしの、単なるスケベ野郎
だってことをね!」
「彼は違うわ」と、私は反論する。
「彼はそんなんじゃないわ。私は彼のことを信じているわ」
「男なんか信じてどおすんの、馬鹿だねまったく。こりゃあ筋金入り
のお馬鹿さんだね。
とにかくすぐに別れなさい。絶対に、なにがあってもその男
とは別れなさい。いいわね、ママの云うことを聞くのよ、約束
したからね」
「約束なんかしていないわ。私はもう大人よ。自分のことは自分
で決めるわ」
「なにが大人よ、笑わせるんじゃないわ。少しくらいセックス
が上手になった程度で、あんたまさか大人になったつもりでいるの?
セックスなんてね、男さえいれば大人にならなくったっていくら
でもできるのよ。そんなもんで大人の社会を知った気になって
どおすんのよ、ったく。……いい? 陽子はいくつになってもママ
の子どもなんだってことくらい覚えておきなさいよ!」
「ママだって、ミュージシャンの人と再婚したじゃない」
「あの人はね、別なの別。そんなことも分からないから、あんた
は子どもだって云うのよ。あの人は特別なミュージシャンなのよ」
「なにが特別なの?」
「彼は男のなかでも特別な男だし、ミュージシャンのなかでも特別
なミュージシャンだし、あたしのなかでも特別な人なのよ。どうせ
陽子なんかには理解できないでしょうけどね、どこの馬の骨
ともしれないような男とほいほい寝るようなあんたには」
こんな母親には、なにを云っても無駄だと感じた。常に一方的
で、相手を理解しようとする気持ちが欠片もない。亡くなった父親
が別の女性のところに逃げたくなる気持ちも、いまの私には分かる
気がする。それでも、私の母親には違いなかった。
「とにかく、そのど助平野郎と別れないと、ママ、陽子と親子の縁
を切るからね。分かった? その男とは、絶対に別れなさい
よ。別れないと承知しないからね。あんたにはあたしみたいな苦労
はして欲しくないから云っているのよ。堅気と結婚しなさい
よ、堅気と」
2009年01月12日
雨の動物園(44)
私はいま、レコーディング・スタジオのミキサー室で、ゆったり
としたソファーに躰を沈めている彰の姿を、カメラ越し
に覗いている。
新しいアルバムの制作は大詰めを迎えつつあった。三ヶ月
に及んだレコーディングはほぼ終了し、曲の絞り込み作業
も終えて、彰はいま、ミックス・ダウンと平行して曲の順番
を思案している。私は一週間に一度ほどスタジオに顔
を出し、事務所の依頼でレコーディング中の彰やバンド
のメンバー、ミキシング・エンジニアやスタッフなどの撮影
を続けていた。今日は終了が近づいてきたと聞き、夕方
からずっとスタジオに籠って様子を窺っているが、そろそろ
朝の四時にさしかかろうとしているのに、縷々として作業が進行
しているようには見えなかった。
彰は先ほどからしきりに首を傾げていた。ミキサー卓の左右
に設置してあるスピーカーから流れてくる、ミックス・ダウン
を終了したばかりの音には満足そうにOKサインを出す
のに、それでもなにかまだ釈然としない様子だった。
私はこれ以上粘っても邪魔になるだけだと考え、カメラ
をバッグにしまい、帰り支度をしかけたとき、彰が私の名
を呼んだ。
「陽子、帰る前にこれを見てくれないか。アルバムの曲順
をふた通りまで絞ったんだけど、どうももうひとつ納得
がいかなくて。陽子の意見を聞かせて欲しいんだ」
マネージャーの意味深長な視線を気にしつつ、私は一枚の紙切れ
を受け取り、後方の椅子に腰掛けて読んだ。見ると、途中の曲順
は同じだが、オープニングの曲と最後の曲の順番が逆になっている
のが分かった。
「どれどれ」と云って、マネージャーが私の横に来てどしっ
と座り、メモを覗き込む。
「悪いんだけど、斉藤は口を挟まないでくれないか」と、彰が低い声
で窘める。彰よりも五つほど年上のマネージャーは、一瞬顔
をこわばらせたが、それ以上はなにも云わず、何事もなかった
かのようにジャケットの内ポケットから煙草を取り出して火
をつけた。
私は、運否天賦の鍵を握らされた思いで、楽曲のつなぎを頭
のなかでイメージした。どれも自宅で聴き慣れた曲ばかり
だったが、すでにシングルとして発表されている「天使の呼吸」
が、オープニングに記してあるのと一番最後に記してある
のとで、私は悩みに悩んだ。ただ、オープニングがバラード
というのは気になった。しかもシングルで先行発売
されており、ファンには馴染みがあり過ぎる
ように思われた。きっと、期待感がしょぼんでしまうだろう。私
はしだいに、バラードだし、それも大切なバラードなら余計にラスト
で締めくくるのが常識的な気がしてきた。
「常套手段は、なしだよ」と、背中を向けたまま、彰が私の心
を見透かしたように云った。私は、それならそうと先に云えばいい
し、そう思うのならはじめから順番は決まっているようなものだ
と思った。それなのになぜ、彰は私に意見を求めたのか、それが不思議
だった。
……違うなにかを期待されている……。
そう思ったとき、私の なかに閃きが訪れた。
「私ならこうする」と云って、私は一曲目に「天使の呼吸」
が記してある曲順をまるで囲み、手渡した。彰はそれを見て、
「やっぱり、オープニングにバラードだよな」と云って、振り返る。
「うん。それとね、私なら同じ曲を最後にも入れたいな」
「同じ曲を、一曲目と最後に?」と、彰が怪訝な顔をして私
に聞き返す。
「そう。ただし、オープニングはアカペラでね」
私がそう云うと、彰はソファーの背もたれに躰を預けて天を仰いだ。
束の間、静まり返ったスタジオで、彼は二度、大きく深呼吸
をし、立ち上がったかと思うと私のところへ来て笑顔でこう云った。
「いいね、それ」
としたソファーに躰を沈めている彰の姿を、カメラ越し
に覗いている。
新しいアルバムの制作は大詰めを迎えつつあった。三ヶ月
に及んだレコーディングはほぼ終了し、曲の絞り込み作業
も終えて、彰はいま、ミックス・ダウンと平行して曲の順番
を思案している。私は一週間に一度ほどスタジオに顔
を出し、事務所の依頼でレコーディング中の彰やバンド
のメンバー、ミキシング・エンジニアやスタッフなどの撮影
を続けていた。今日は終了が近づいてきたと聞き、夕方
からずっとスタジオに籠って様子を窺っているが、そろそろ
朝の四時にさしかかろうとしているのに、縷々として作業が進行
しているようには見えなかった。
彰は先ほどからしきりに首を傾げていた。ミキサー卓の左右
に設置してあるスピーカーから流れてくる、ミックス・ダウン
を終了したばかりの音には満足そうにOKサインを出す
のに、それでもなにかまだ釈然としない様子だった。
私はこれ以上粘っても邪魔になるだけだと考え、カメラ
をバッグにしまい、帰り支度をしかけたとき、彰が私の名
を呼んだ。
「陽子、帰る前にこれを見てくれないか。アルバムの曲順
をふた通りまで絞ったんだけど、どうももうひとつ納得
がいかなくて。陽子の意見を聞かせて欲しいんだ」
マネージャーの意味深長な視線を気にしつつ、私は一枚の紙切れ
を受け取り、後方の椅子に腰掛けて読んだ。見ると、途中の曲順
は同じだが、オープニングの曲と最後の曲の順番が逆になっている
のが分かった。
「どれどれ」と云って、マネージャーが私の横に来てどしっ
と座り、メモを覗き込む。
「悪いんだけど、斉藤は口を挟まないでくれないか」と、彰が低い声
で窘める。彰よりも五つほど年上のマネージャーは、一瞬顔
をこわばらせたが、それ以上はなにも云わず、何事もなかった
かのようにジャケットの内ポケットから煙草を取り出して火
をつけた。
私は、運否天賦の鍵を握らされた思いで、楽曲のつなぎを頭
のなかでイメージした。どれも自宅で聴き慣れた曲ばかり
だったが、すでにシングルとして発表されている「天使の呼吸」
が、オープニングに記してあるのと一番最後に記してある
のとで、私は悩みに悩んだ。ただ、オープニングがバラード
というのは気になった。しかもシングルで先行発売
されており、ファンには馴染みがあり過ぎる
ように思われた。きっと、期待感がしょぼんでしまうだろう。私
はしだいに、バラードだし、それも大切なバラードなら余計にラスト
で締めくくるのが常識的な気がしてきた。
「常套手段は、なしだよ」と、背中を向けたまま、彰が私の心
を見透かしたように云った。私は、それならそうと先に云えばいい
し、そう思うのならはじめから順番は決まっているようなものだ
と思った。それなのになぜ、彰は私に意見を求めたのか、それが不思議
だった。
……違うなにかを期待されている……。
そう思ったとき、私の なかに閃きが訪れた。
「私ならこうする」と云って、私は一曲目に「天使の呼吸」
が記してある曲順をまるで囲み、手渡した。彰はそれを見て、
「やっぱり、オープニングにバラードだよな」と云って、振り返る。
「うん。それとね、私なら同じ曲を最後にも入れたいな」
「同じ曲を、一曲目と最後に?」と、彰が怪訝な顔をして私
に聞き返す。
「そう。ただし、オープニングはアカペラでね」
私がそう云うと、彰はソファーの背もたれに躰を預けて天を仰いだ。
束の間、静まり返ったスタジオで、彼は二度、大きく深呼吸
をし、立ち上がったかと思うと私のところへ来て笑顔でこう云った。
「いいね、それ」
2009年01月05日
雨の動物園(43)
私はいま、決して順風満帆とまではいかないまでも、この今の世界
に生まれてきたことに対して素直に両親に感謝している。
ビルの谷間を吹き抜ける心地よい風が、私の躰にさらりと触れ
て過ぎ去っていく。角を曲がり、大きな交差点にさしかかろうと
したとき、今朝読んだ父親の詩集の一部が、唐突に甦る。
いつだって
きみの未来はきみのもの
さあ 鳥のように季節を敏感に感じてごらん
そうしたなら
すべての大切な鍵は
きみ自身が握っていることを知るだろう
だけれども
実のところ よくよく考えてみたとしたなら
きみは知っていたはず
まだ幼い頃から
すべての鍵は
はじめからきみが握っていたことを
さあ もう一度
躍動するこの季節を感じてごらん
そして
潤色なき光を感じてごらん
そうすれば
つぎの扉も
きっときみのその手で開けられるだろう
夢と勇気を
どんなときでも
心のなかで
固く握りしめていることができたなら
頭のなかで復唱するが、正直なところ意味がよく理解
できないし、いまは意味などどうでも良い気
がしている。ただ、父親に話しかけられているような気
になるので、単にそれが嬉しくて復唱している。
人混みのなかを逆行するように歩く足どりが、今日
はいつになく軽やかだ。ハミングのひとつでもしたくなる
ような気分で、私は大通りに面した書店に入る。片瀬彰
の記事が掲載されている雑誌を探し、インタビュー記事
を立ち読みした。彼は、今度発表するシングルがこれから先
の自分の方向性を決定するのに重要な意味
を持つだろうと語っている。
私はすでに、彼からその曲を聴かせてもらっていた。ピアノ
ではじまる前奏が印象的な、覚えやすいバラードだ。明るい
メロディーの割には、メッセージ色のある曲だった。
「好きよ、この曲」と、はじめて聴かせてもらったとき、私
はそう云った。
「ありがとう」と、彼は素直に喜んだ。
「この曲はぼくだけでなく、ぼくときみにとって大切な曲
になると思うんだ」
私はどう返事をしてよいのか戸惑いを感じ、
「曲のタイトルはなんていうの?」と訊ねた。すると、彼は澄んだ瞳
を輝かせて間髪入れずにこう云った。
「『天使の呼吸』、というタイトルをつけるつもり。ぼく
がはじめてきみに捧げるつもりで書いた曲なんだ。……きみ
のため、といった表現は間違っているかもしれないけど、きみ
に捧げる曲をつくりたくて、あのとき……、きみがベッド
で小さな寝息を立てているときに、書いたんだ」
に生まれてきたことに対して素直に両親に感謝している。
ビルの谷間を吹き抜ける心地よい風が、私の躰にさらりと触れ
て過ぎ去っていく。角を曲がり、大きな交差点にさしかかろうと
したとき、今朝読んだ父親の詩集の一部が、唐突に甦る。
いつだって
きみの未来はきみのもの
さあ 鳥のように季節を敏感に感じてごらん
そうしたなら
すべての大切な鍵は
きみ自身が握っていることを知るだろう
だけれども
実のところ よくよく考えてみたとしたなら
きみは知っていたはず
まだ幼い頃から
すべての鍵は
はじめからきみが握っていたことを
さあ もう一度
躍動するこの季節を感じてごらん
そして
潤色なき光を感じてごらん
そうすれば
つぎの扉も
きっときみのその手で開けられるだろう
夢と勇気を
どんなときでも
心のなかで
固く握りしめていることができたなら
頭のなかで復唱するが、正直なところ意味がよく理解
できないし、いまは意味などどうでも良い気
がしている。ただ、父親に話しかけられているような気
になるので、単にそれが嬉しくて復唱している。
人混みのなかを逆行するように歩く足どりが、今日
はいつになく軽やかだ。ハミングのひとつでもしたくなる
ような気分で、私は大通りに面した書店に入る。片瀬彰
の記事が掲載されている雑誌を探し、インタビュー記事
を立ち読みした。彼は、今度発表するシングルがこれから先
の自分の方向性を決定するのに重要な意味
を持つだろうと語っている。
私はすでに、彼からその曲を聴かせてもらっていた。ピアノ
ではじまる前奏が印象的な、覚えやすいバラードだ。明るい
メロディーの割には、メッセージ色のある曲だった。
「好きよ、この曲」と、はじめて聴かせてもらったとき、私
はそう云った。
「ありがとう」と、彼は素直に喜んだ。
「この曲はぼくだけでなく、ぼくときみにとって大切な曲
になると思うんだ」
私はどう返事をしてよいのか戸惑いを感じ、
「曲のタイトルはなんていうの?」と訊ねた。すると、彼は澄んだ瞳
を輝かせて間髪入れずにこう云った。
「『天使の呼吸』、というタイトルをつけるつもり。ぼく
がはじめてきみに捧げるつもりで書いた曲なんだ。……きみ
のため、といった表現は間違っているかもしれないけど、きみ
に捧げる曲をつくりたくて、あのとき……、きみがベッド
で小さな寝息を立てているときに、書いたんだ」
2008年12月21日
雨の動物園(42)
私はいま、瞼を閉じたまま、片瀬彰の潤いのあるキス
を躰全体で感じている。
額にキッス、唇にキッス、首筋にキッス、胸元にキッス、
キッスキッスキッス。
私は彼の背中に指を這わせ、頭を抱き寄せる。太股を愛撫
していた彰の蠱惑的な手が、横腹をつたって胸全体をやさしく揉み
ほぐす。私は思わず躰をのけ反らせ、高ぶる気持ちを我慢
しようとする。きらめくような快感の渦に溺れそう
になり、私は彼の唇を求める。彰がそれに答える。さのとき、肉体
で感じる以上の普遍的ななにかを、心の中で感じることができそう
な気がした。
私は堪えきれずに声を漏らし、躰を開く。と同時に心
も開く。心と躰がひとつになりそうだった。彰が私の中
にゆっくりと入ってこようとする。彰と私がひとつになろう
としていた。私は躰と心の奥底まで、思う存分に彰を迎え入れる用意
をした。私が求めたのは彼の躰だったのか、心
だったのか、それともその両方だったのか、考えよう
としたが、もはやそんなことはどうでもいいことになりつつあった。
……さんざめくような街の喧噪がかすかに聞こえる。彰は私の胸元
まで毛布を引き上げ、ひとり、ベッドから抜け出して部屋の明かり
を灯した。床に落としていた下着を拾い上げ、くるりと背中
を向ける。そして再び毛布に潜り込み、私に顔を寄せてささやく
ように云った。
「綺麗な髪だ。好きだよ、きみの髪」
「ありがとう」と、私は素直に礼を述べる。彼は私の髪を手のひら
の上において弄ぶ。
「でも子どもの頃は茶色くてね、一生このまま、赤茶けた髪のまま
ならどうしようって、いつも不安がっていたのを覚えているわ」
片瀬彰は手のひらにのせていた私の髪の毛に、静かに口
をつけた。
「だけど好きなのは、髪だけじゃないよ」
それ以上、彼は何も話さないし、私もただ「うん」と、小さく頷いた
だけだった。
ここ数カ月、雑誌の取材やレコード会社や事務所から直接の依頼
などで、彼と一緒に仕事をする機会が多くなり、自然と仕事
の帰りに台湾料理の屋台で食事をしたり、ガード下の飲み屋
で美味しいもつ煮込みをつついたりするようになっていた。
そんなときにする会話には大した意味はなく、大概は冗談
を言い合って笑ったりとか、友だちの過去を暴露して楽しんだり
とか、お互いの失敗談や体験談などをとめどもなく話したりする程度
のことだった。はじめてのデートのときような真面目な会話
は、不思議なほど少なかった。一緒にいて楽しい、といった基本的
な合意が暗黙のうちに交わされた感じがしただけで、ふたり
とも、しばらくはそれで十分だったように思う。それがいつの頃
からか、それだけではなにかが欠けている気がしだし、今日、はじめて
私のほうからデートに誘ったのだった。
小雨の降る動物園で、象の鼻を撫でながら、私はこう云った。
「ナシ・ゴレンって、知ってる?」
「いや。なに、それ?」
「インドネシアの炒飯。私がつくると辛目だけど。もしよければ、うち
でつくってあげようか」
まもなく、朝が夜に追いつく時間になりつつあった。私は天井
を見上げながら、部屋の空気を吸い込んでみる。かすかに漂う
セックスの匂いと香辛料の匂い、それとお酒の匂いがした。顔を毛布
の奥に潜り込ませ、今度は片瀬彰の匂いを嗅いでみた。汗ばんだ、男臭い
匂いがする。それは、嫌いな匂いではなかった。私は毛布から顔
を出し、もう一度深呼吸をした。
新しい朝が、手を伸ばせば届きそうな場所で、私たちを待っていた。
を躰全体で感じている。
額にキッス、唇にキッス、首筋にキッス、胸元にキッス、
キッスキッスキッス。
私は彼の背中に指を這わせ、頭を抱き寄せる。太股を愛撫
していた彰の蠱惑的な手が、横腹をつたって胸全体をやさしく揉み
ほぐす。私は思わず躰をのけ反らせ、高ぶる気持ちを我慢
しようとする。きらめくような快感の渦に溺れそう
になり、私は彼の唇を求める。彰がそれに答える。さのとき、肉体
で感じる以上の普遍的ななにかを、心の中で感じることができそう
な気がした。
私は堪えきれずに声を漏らし、躰を開く。と同時に心
も開く。心と躰がひとつになりそうだった。彰が私の中
にゆっくりと入ってこようとする。彰と私がひとつになろう
としていた。私は躰と心の奥底まで、思う存分に彰を迎え入れる用意
をした。私が求めたのは彼の躰だったのか、心
だったのか、それともその両方だったのか、考えよう
としたが、もはやそんなことはどうでもいいことになりつつあった。
……さんざめくような街の喧噪がかすかに聞こえる。彰は私の胸元
まで毛布を引き上げ、ひとり、ベッドから抜け出して部屋の明かり
を灯した。床に落としていた下着を拾い上げ、くるりと背中
を向ける。そして再び毛布に潜り込み、私に顔を寄せてささやく
ように云った。
「綺麗な髪だ。好きだよ、きみの髪」
「ありがとう」と、私は素直に礼を述べる。彼は私の髪を手のひら
の上において弄ぶ。
「でも子どもの頃は茶色くてね、一生このまま、赤茶けた髪のまま
ならどうしようって、いつも不安がっていたのを覚えているわ」
片瀬彰は手のひらにのせていた私の髪の毛に、静かに口
をつけた。
「だけど好きなのは、髪だけじゃないよ」
それ以上、彼は何も話さないし、私もただ「うん」と、小さく頷いた
だけだった。
ここ数カ月、雑誌の取材やレコード会社や事務所から直接の依頼
などで、彼と一緒に仕事をする機会が多くなり、自然と仕事
の帰りに台湾料理の屋台で食事をしたり、ガード下の飲み屋
で美味しいもつ煮込みをつついたりするようになっていた。
そんなときにする会話には大した意味はなく、大概は冗談
を言い合って笑ったりとか、友だちの過去を暴露して楽しんだり
とか、お互いの失敗談や体験談などをとめどもなく話したりする程度
のことだった。はじめてのデートのときような真面目な会話
は、不思議なほど少なかった。一緒にいて楽しい、といった基本的
な合意が暗黙のうちに交わされた感じがしただけで、ふたり
とも、しばらくはそれで十分だったように思う。それがいつの頃
からか、それだけではなにかが欠けている気がしだし、今日、はじめて
私のほうからデートに誘ったのだった。
小雨の降る動物園で、象の鼻を撫でながら、私はこう云った。
「ナシ・ゴレンって、知ってる?」
「いや。なに、それ?」
「インドネシアの炒飯。私がつくると辛目だけど。もしよければ、うち
でつくってあげようか」
まもなく、朝が夜に追いつく時間になりつつあった。私は天井
を見上げながら、部屋の空気を吸い込んでみる。かすかに漂う
セックスの匂いと香辛料の匂い、それとお酒の匂いがした。顔を毛布
の奥に潜り込ませ、今度は片瀬彰の匂いを嗅いでみた。汗ばんだ、男臭い
匂いがする。それは、嫌いな匂いではなかった。私は毛布から顔
を出し、もう一度深呼吸をした。
新しい朝が、手を伸ばせば届きそうな場所で、私たちを待っていた。
2008年12月14日
雨の動物園(41)
私はいま、午後のやわらかい陽光がたくさん入る窓際に椅子
を引き寄せて、父親の詩集を手にしている。
あまりにボロボロで、古本屋の片隅に置くのもはばかられそうなこの詩集
は、それでも、いまもなお生命エネルギーに満ち溢れている。ここ数日、
どうも仕事が手につかず、溜まっている現像やプリントをあとまわし
にして、気分転換にと考え、久しぶりに詩集を開いてみた。ページ
をめくるたびに、まるで父親がとなりで読んで聞かせてくれている
ような、そんな錯覚に陥りそうになる。
愛を求め続ける姿が悲しくうつろう
愛を与え続ける姿が美しくうつろう
喜びを感じるとき
その答えは
茜色に輝く光の中に
ページをめくる
雲が踊りたがっていた
風がそれを助けた
草花が踊り疲れていた
雨がそれを癒した
私は見た
命あるものすべてが
翼を手に入れるマジックを
ページをめくる
いつもこの世は夢のまた夢
魂を語ることを
きみは畏れるだろうか
遠い昔
ぼくたちが
いかにして魂を得たのか
誰か教えて欲しい
ページをめくる
物語のはじまりは
偶然見かけた彼女の後ろ姿
ときめきという酸素が躰中を走り回り
降りしきる雪の音が
静寂を超えていく
ページをめくる
星の数を数えたことがあるかい
自分の喜びを数えたことがあるかい
愛している人の数を 数えたことがあるかい
ページをめくる ページをめくる ページをめくる……、……、……。
私は涙がこぼれ落ちそうになったので、仕方なしに天井
を見上げた。最後のページは見ないことにして、詩集
をそっと閉じた。
を引き寄せて、父親の詩集を手にしている。
あまりにボロボロで、古本屋の片隅に置くのもはばかられそうなこの詩集
は、それでも、いまもなお生命エネルギーに満ち溢れている。ここ数日、
どうも仕事が手につかず、溜まっている現像やプリントをあとまわし
にして、気分転換にと考え、久しぶりに詩集を開いてみた。ページ
をめくるたびに、まるで父親がとなりで読んで聞かせてくれている
ような、そんな錯覚に陥りそうになる。
愛を求め続ける姿が悲しくうつろう
愛を与え続ける姿が美しくうつろう
喜びを感じるとき
その答えは
茜色に輝く光の中に
ページをめくる
雲が踊りたがっていた
風がそれを助けた
草花が踊り疲れていた
雨がそれを癒した
私は見た
命あるものすべてが
翼を手に入れるマジックを
ページをめくる
いつもこの世は夢のまた夢
魂を語ることを
きみは畏れるだろうか
遠い昔
ぼくたちが
いかにして魂を得たのか
誰か教えて欲しい
ページをめくる
物語のはじまりは
偶然見かけた彼女の後ろ姿
ときめきという酸素が躰中を走り回り
降りしきる雪の音が
静寂を超えていく
ページをめくる
星の数を数えたことがあるかい
自分の喜びを数えたことがあるかい
愛している人の数を 数えたことがあるかい
ページをめくる ページをめくる ページをめくる……、……、……。
私は涙がこぼれ落ちそうになったので、仕方なしに天井
を見上げた。最後のページは見ないことにして、詩集
をそっと閉じた。
2008年12月07日
雨の動物園(40)
私はいま、雨上がりのアスファルトを照らす月明かりの下で、放浪癖
のある心を放ったらかしにして星を探している。
明月のような丸い月はぽかんと出ているものの、あとは雲
に覆われて、いくら星を探してもどうしても見当たらない。
星を探すことを諦め、傘を杖代わりにして、私はこつんこつん
と、アスファルトの表面を突きながら人気のない道を歩く。静寂
を破る私の足音と傘の音が、ひとりぽっちの淋しさをより一層身
につまらせてしまう。
私は今日、雑誌の編集者と意見が折り合わず、つい口論
をしてしまい、その後味の悪さを引きずって、誰もいない暗い部屋
へ帰ることを躊躇っていた。
雑誌に掲載された写真のデザインにどうしても納得がいかず、担当の編集者
に意義を申し立てると、「陽子ちゃんのプライドが高すぎるんだ」
と、彼は私の云為を避難する口調でこう続けた。
「それはいくらなんでもエゴってもんだろ陽子ちゃん。雑誌は、編集者
の手の中にあるんだ。さらに付け足すなら、読者の手の中にもね。
編集者は、読者が喜んでくれるものを提供する責任
があるんだよ。云ってとくけど、うちのデザイナーは優秀
だからね、写真の弱点を補って余りあるものがあるんだよ」
ごつごつした印象を与える顔立ちの編集者は、分厚い唇の左端
をぴくりと持ち上げ、応接セットの椅子にふんぞり返った。
「弱点というのは、どういう意味ですか」と、私は精一杯理性
にすがりつきながら訊ねる。それでも声がうわずっているのが自分
でも分かった。
「残念ながら陽子ちゃん、はっきり云うけどこの写真はちょっとインパクト
に欠けていたんじゃないかな。……僕はそう思うよ。たぶん、デザイナー
もそう思ったから写真の上に派手で大きな文字をデザイン
したんだと思うよ。
どうだろうね。陽子ちゃんはどう思うかな。安っぽい建て売り住宅の玄関先
で、別に綺麗でもない普通のおばさんがただ花の鉢植えを並べようとしている
だけの写真でしょ。ひょっとしたら哀愁くらいはあるかもしれないけど、
インパクトという観点からはほど遠い写真だと思わない?」
「哀愁ではなくて愛情だと思いますし、それにこの写真は強烈
になにかをアピールする写真ではなくて、見た人がほんのりとした安らぎ
を覚えるような、そんな写真です」
「安らぎよりも、インパクトだよ陽子ちゃん」と、編集者は身の乗り出して私
を啓蒙する。
「いつの時代だって、インパクトの強い者が勝つんだ。勝たなきゃね、意味
がないんだよ」
「それならなぜ、この写真を掲載されたんですか」
「名前だよ、名前。ここんとこ、陽子ちゃん人気があるからさ、売る手段
のひとつとして、陽子ちゃんの名前が欲しかっただけなんだ。だから極端
な話、どんな写真であろうと関係なかったんだよね。でもそれってほら、
お互い様、だよね」
私はたまりかねて道路脇に佇み、同じようにぽつねんと浮かんでいる満月
に語りかた。
「今夜はあなたもひとり。私もひとり。いっそ朝まで、あなた
とこうしていようか」
「勝たなきゃね、意味がないんだよ」……、どこからか、編集者の声
が追いかけてくる。星はあいかわらずひとつも見当たらない。
ふと気がつくと、月がわずかに移動していて、さっきよりも急に遠くに感じた。
のある心を放ったらかしにして星を探している。
明月のような丸い月はぽかんと出ているものの、あとは雲
に覆われて、いくら星を探してもどうしても見当たらない。
星を探すことを諦め、傘を杖代わりにして、私はこつんこつん
と、アスファルトの表面を突きながら人気のない道を歩く。静寂
を破る私の足音と傘の音が、ひとりぽっちの淋しさをより一層身
につまらせてしまう。
私は今日、雑誌の編集者と意見が折り合わず、つい口論
をしてしまい、その後味の悪さを引きずって、誰もいない暗い部屋
へ帰ることを躊躇っていた。
雑誌に掲載された写真のデザインにどうしても納得がいかず、担当の編集者
に意義を申し立てると、「陽子ちゃんのプライドが高すぎるんだ」
と、彼は私の云為を避難する口調でこう続けた。
「それはいくらなんでもエゴってもんだろ陽子ちゃん。雑誌は、編集者
の手の中にあるんだ。さらに付け足すなら、読者の手の中にもね。
編集者は、読者が喜んでくれるものを提供する責任
があるんだよ。云ってとくけど、うちのデザイナーは優秀
だからね、写真の弱点を補って余りあるものがあるんだよ」
ごつごつした印象を与える顔立ちの編集者は、分厚い唇の左端
をぴくりと持ち上げ、応接セットの椅子にふんぞり返った。
「弱点というのは、どういう意味ですか」と、私は精一杯理性
にすがりつきながら訊ねる。それでも声がうわずっているのが自分
でも分かった。
「残念ながら陽子ちゃん、はっきり云うけどこの写真はちょっとインパクト
に欠けていたんじゃないかな。……僕はそう思うよ。たぶん、デザイナー
もそう思ったから写真の上に派手で大きな文字をデザイン
したんだと思うよ。
どうだろうね。陽子ちゃんはどう思うかな。安っぽい建て売り住宅の玄関先
で、別に綺麗でもない普通のおばさんがただ花の鉢植えを並べようとしている
だけの写真でしょ。ひょっとしたら哀愁くらいはあるかもしれないけど、
インパクトという観点からはほど遠い写真だと思わない?」
「哀愁ではなくて愛情だと思いますし、それにこの写真は強烈
になにかをアピールする写真ではなくて、見た人がほんのりとした安らぎ
を覚えるような、そんな写真です」
「安らぎよりも、インパクトだよ陽子ちゃん」と、編集者は身の乗り出して私
を啓蒙する。
「いつの時代だって、インパクトの強い者が勝つんだ。勝たなきゃね、意味
がないんだよ」
「それならなぜ、この写真を掲載されたんですか」
「名前だよ、名前。ここんとこ、陽子ちゃん人気があるからさ、売る手段
のひとつとして、陽子ちゃんの名前が欲しかっただけなんだ。だから極端
な話、どんな写真であろうと関係なかったんだよね。でもそれってほら、
お互い様、だよね」
私はたまりかねて道路脇に佇み、同じようにぽつねんと浮かんでいる満月
に語りかた。
「今夜はあなたもひとり。私もひとり。いっそ朝まで、あなた
とこうしていようか」
「勝たなきゃね、意味がないんだよ」……、どこからか、編集者の声
が追いかけてくる。星はあいかわらずひとつも見当たらない。
ふと気がつくと、月がわずかに移動していて、さっきよりも急に遠くに感じた。
2008年11月30日
雨の動物園(39)
私はいま、ステージの袖から、片瀬彰の唄う姿を夢中になって撮影
している。
赤いバンダナを首に巻き付け、汗で髪の毛をきらきら光らせ、マイク
・ スタンドにしがみつくようにして唄う姿が悩ましく、私は見とれて瞬間的
に我を忘れそうになる。
一曲唄い終えるたびに、津波のような大歓声がステージめがけて押し寄せ
てくる。私は彼が客席に向かって話しかけている隙に、裏手にある関係者専用
の重層な扉を開けてステージと客席の最前列の間を目指して走る。しかし、
たどり着く前に最後の曲の演奏がはじまってしまい、私は無理して移動
を試みたことを後悔した。それでも急いでカメラを構え、片瀬彰の姿
をファインダーの中で探す。
彼は、黒いストラップを肩に掛け、そこに吊されている黒いギター
のヴォリュームを調整し、険しい表情で客席を見据えていた。十本
のスポット・ライトが、四方八方から彼を捉えて離さない。
どうしても
野良犬になれなくて
飼い慣らされた
犬のような奴等
蹴りを入れてやれ 蹴りを入れてやれ
怠惰な生活におさらばするのさ
俺はたった今から
信じた道を歩きはじめる
お前を連れて
鳥が 飛ぶために生まれてきたように
そうさ
俺は
生きるために生まれてきたのさ
誰かの涙に濡れた夕陽を超えて
朝日を目指して
いま 羽ばたこう お前を連れて お前を連れて
それはまるで若さの特権のような歌であり、若さの若さたる所以
のような歌であった。しかし、それが圧倒的な説得力を持った音楽
として、会場に詰めかけた多くの客の心を揺さぶっている。
彼が、マイク・スタンドから後ずさりしてギターを掻き鳴らす。照明
がリズムに合わせて白から青へ、青から赤へと変化する。歓声を打ち消す
ように、音の洪水が頭上を襲う。私はしきりにシャッターを切りながら、自分
が鳥肌を立てていることに気がついた。会場にいる大多数の人間も、興奮
していた。 フィルムを巻き戻す間に別のカメラを片瀬彰に向ける。ステージに両膝
をつき、ギターで早いテンポのリズムを遮二無二刻んでいる。彼はギター
から眼を離さない。その怖いくらいの表情を捉え、私は無我夢中
になってシャッターを切る。片瀬彰の今を、私はシャッターで切り取っていく。
十本のスポット・ライトが、客席を自在に旋回したかと思うと、次の瞬間
には彼の足元でぴたりと停止し、正確なひとつの円を形づくる。すると、
突然音が鳴りやみ、彼のしゃがれた声だけが残り、流れ星が天空を駆けめぐる
ように、浮かんでは消えていった。
フィナーレが訪れた。呼吸を整え、彼が囁くように云う。
「みんなのおかげで素敵な夜になりました。ありがとう、感謝しています」
している。
赤いバンダナを首に巻き付け、汗で髪の毛をきらきら光らせ、マイク
・ スタンドにしがみつくようにして唄う姿が悩ましく、私は見とれて瞬間的
に我を忘れそうになる。
一曲唄い終えるたびに、津波のような大歓声がステージめがけて押し寄せ
てくる。私は彼が客席に向かって話しかけている隙に、裏手にある関係者専用
の重層な扉を開けてステージと客席の最前列の間を目指して走る。しかし、
たどり着く前に最後の曲の演奏がはじまってしまい、私は無理して移動
を試みたことを後悔した。それでも急いでカメラを構え、片瀬彰の姿
をファインダーの中で探す。
彼は、黒いストラップを肩に掛け、そこに吊されている黒いギター
のヴォリュームを調整し、険しい表情で客席を見据えていた。十本
のスポット・ライトが、四方八方から彼を捉えて離さない。
どうしても
野良犬になれなくて
飼い慣らされた
犬のような奴等
蹴りを入れてやれ 蹴りを入れてやれ
怠惰な生活におさらばするのさ
俺はたった今から
信じた道を歩きはじめる
お前を連れて
鳥が 飛ぶために生まれてきたように
そうさ
俺は
生きるために生まれてきたのさ
誰かの涙に濡れた夕陽を超えて
朝日を目指して
いま 羽ばたこう お前を連れて お前を連れて
それはまるで若さの特権のような歌であり、若さの若さたる所以
のような歌であった。しかし、それが圧倒的な説得力を持った音楽
として、会場に詰めかけた多くの客の心を揺さぶっている。
彼が、マイク・スタンドから後ずさりしてギターを掻き鳴らす。照明
がリズムに合わせて白から青へ、青から赤へと変化する。歓声を打ち消す
ように、音の洪水が頭上を襲う。私はしきりにシャッターを切りながら、自分
が鳥肌を立てていることに気がついた。会場にいる大多数の人間も、興奮
していた。 フィルムを巻き戻す間に別のカメラを片瀬彰に向ける。ステージに両膝
をつき、ギターで早いテンポのリズムを遮二無二刻んでいる。彼はギター
から眼を離さない。その怖いくらいの表情を捉え、私は無我夢中
になってシャッターを切る。片瀬彰の今を、私はシャッターで切り取っていく。
十本のスポット・ライトが、客席を自在に旋回したかと思うと、次の瞬間
には彼の足元でぴたりと停止し、正確なひとつの円を形づくる。すると、
突然音が鳴りやみ、彼のしゃがれた声だけが残り、流れ星が天空を駆けめぐる
ように、浮かんでは消えていった。
フィナーレが訪れた。呼吸を整え、彼が囁くように云う。
「みんなのおかげで素敵な夜になりました。ありがとう、感謝しています」